物語は、極めて優れた感情駆動装置である。
ストーリーテリングを指南する多くの書は、新米ライターに向けてこう助言する。
「物語には、読者が共感しうる目的が必要である。そして、その目的へ向かう登場人物の動機と、それを阻害する困難が存在しなければならない」
その作法は、物語を正しく運動させる。
整えられたストーリーのなかで、主人公たちは目的のために歩き出す。苦難に直面し、葛藤し、ときに挫折しながらも変化していく。そして最後には、悲願の目的達成あるいは大切なものの喪失を受け入れ、幕を下ろす。
我々はその過程を追体験することで、感情の揺れ動きを知る。
恋愛作品は恋情や緊張を与え、ホラーは恐怖や不気味さを呼び起こす。ミステリーは、人間の動機から「事件」という裂け目を開き、「解決」という目的を生み出す。ストーリーテリングの美しい典型である。ファンタジーやSFのような非現実的作品でさえ、その本質には、人間の変化によって現実の心を動かす構造がある。
物語は、私の人生で到底経験しきれない数の出来事を描写する。
フィクションという安全圏から、何千、何万もの感情を伝えてくる。そこには人間世界の美しさも醜さもあり、ときに人生観や倫理観さえ更新してしまう力がある。
物語は、我々を感情的にさせる。
快楽を与え、原動力となり、ときに生きる理由にさえなりうる。
しかし、錯覚してはならない。
人生は、物語ではない。
たとえ物語が私を動かしたとしても、私の人生そのものを物語に変換することはできない。
人生とは、本来、分割不可能な出来事の連続である。
明瞭な導入もなければ、都合のよい転機もない。
伏線が美しく回収されることも、積み重ねた努力が劇的な達成へ結実することも保証されていない。
現実の時間は、多くの場合、停滞している。
人は食事をし、眠り、働き、退屈に耐え、意味の薄い時間を反復する。
物語のように、「成長」や「覚醒」が明示されることはない。
だが、それを真正面から受け入れるには、酷なことである。
我々はあまりにも多くの物語に囲まれて生きているのだから。
ゆえに人は人生をゲームにたとえる。
経験を積み重ねれば成長できると信じる。
あるいは人生をパズルにたとえ、過去の出来事に意味ある配置を見出そうとする。
SNSに並ぶ他者の人生もまた、その錯覚を補強する。
誰もが人生の断片を切り取り、編集し、物語として提示する。
成功、恋愛、努力、挫折、再起。
そこには序破急があり、演出があり、観客がいる。
しかし実際には、どのような著名人も、インフルエンサーも、あなたの知人も、二十四時間三百六十五日を物語的に生きているわけではない。
彼らにもまた、何も起きない時間があり、生活があり、停滞がある。
労働も同様である。
本来、労働とは感情や崇高な目的とは無関係に遂行される反復的営為である。
だが現代社会は、その営みにさえ物語を与えようとする。
努力は成長へ繋がる。
成果は成功へ繋がる。
顧客への誠意は人格を成熟させる。
会社はあなたの夢を支える仲間である。
もちろん、それらすべてが虚偽とは限らない。
そこに救われる人もいるだろう。
だが同時に、それは規則化された過程を、美しく演出しているにすぎないとも言える。
それでもなお、人は物語を求める。
人生を物語として理解しようとする。
「人生=物語」という錯誤が現実に意味づけし、人を支える――物語は、極めて優れた、人生を楽しく過ごせる装置である。
そして、そのとき生じるもの。
それこそが<幻影>である。
<幻影>。
それは、物語と人生のあいだに立ち現れる錯誤の像である。
こころが現実へ重ね描きする、もうひとつの風景である。
ふとした瞬間、遠い過去の声が蘇る。
もう存在しない景色が、いまもどこかに残っているように思える。
夜道で、かつての想い人の気配を錯覚する。
湿った夏の匂いのなかに、取り戻せない青春を見る。
あるいは、人はまだ訪れていない未来の成功を夢想する。
“本来そうなるはずだった自分”の像を、現実のうえへ投影する。
なぜ、そのようなことが起こるのか。
それらが、我々の人生において「物語になりえたもの」だからである。
あるいは、「物語になるはずだったもの」だからである。
ゆえに人は、何でもない風景に過去を重ねる。
存在しない未来に幸福を見る。
その瞬間、凡庸な現実は色褪せ、<幻影>だけが鮮明になる。
――だが、それは錯誤にすぎない。
<幻影>は現実を代替しない。
触れられそうでいて、決して触れられない。
確かに見えているにもかかわらず、それは現実の側には存在しない。
それでもなお、人は<幻影>を追わずにはいられない。
それが物語と同じく、自らを前進させる原動力になると期待するからだ。
我々は、人生という有限の時間を費やして、過去を意味づけ、未来を夢想する。
後悔を抱え、希望を抱え、存在しない像を追跡し続ける。
ならば<幻影>とは、人間の執念と錯誤の果てに残存する、文学的残響なのだろう。
人間は、誤り続ける。
規範から逸脱し、現実を歪め、自らに都合のよい像を見出す。
その歪みこそが、人間の輪郭を形作る。
ゆえに、この眼に映る<幻影>の像は、現実よりも幾分誇張され、ときに真実よりも美しい。
それでも我々に感知できるものは、結局のところ、こころという投射体が映し出す<幻影>そのものにほかならない。
だから我らは<幻影>を追う。
人間という、文学的存在を知るために。
こころという、ありふれてなお不可解な機構のからくりを知るために。

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